池波正太郎「錯乱」より

引用。
 
信幸は、ふっと微笑を浮かべた。浴室の羽目に揺れる陽炎のような微笑であった。
「治政するもののつとめはなあ、治助。領民家来の幸福を願うこと、これひとつよりないのじゃ。
 そのために、おのれが進んで背負う苦痛を忍ぶことの出来ぬものは、人の上に立つことを止めねばならぬ……
 人は、わしを名君と呼ぶ。名君で当たり前なのじゃ。少しも偉くはない。
 大名たるものは皆、名君でなくてはならぬ。それが賞められるべきことでも何でもない。
 百姓が鍬を握り、商人が参盤をはじくことと同じことなのじゃ」